子供時代と今

勉強は出来ない、そのうえ運動能力も著しく欠けていたので小学校開催のマラソン大会では、毎年必ずビリだった。当然、学校の成績は悪い。親の焦りから通わされた習い事はことごとく失敗に終わり、唯一得たものは胸の中で巨大な風船のように膨らんでいく劣等感のみだ。
この愚かさで、他人とのコミュニケーションをまともに取れるはずがないのは自明の理で、ひとつ残されているすべてを挽回出来るカードとしての容姿も、なんとも哀しいことだが、非常に醜く気味が悪いとしか言い様がない。こうなると集団のなかで孤立するのも必然なのだろう。
そして、そんな何もかもが劣った子供が生きるために持てる武器といったら、劣等感に特権意識を与えることぐらいしかないに決まっているのだ。

たとえば、サーフィンを生き方として考えてみる。

上手く波を乗りこなして明るい笑顔を振りまいている人々のなか、辛うじてボードに掴りながらほぼ溺れている自分。

けれども、水面から二つの眼を覗かせて、サーフィンを楽しむ人々の美しさを見ることが出来る自分。

ああ、その美しい姿はボードから落ちなければ見れなかった光景なのだ、わたしには"視る者"としての特権を与えられたのだ、神様!ばんざい!!

醜く気持ち悪く愚かしく生きてやる、そうして美を愛してやろう。

しかし、醜さも気持ち悪さも、ありのままのそれなりなもので意志として貫くことはできなかった。あろうことか、なるべく気持ち悪くならないようにと取り繕う始末だ。まったく、飽きれるほどの中途半端さには吐き気がする。
スケールは違えどジャンジュネがあれだけ悪を賛美し人殺しを憧憬し続けても、こそ泥としかなれなかったことと共通するものを感じてしまう。
結局、わたしには何も与えられていない、何ももっていない、空虚な人間ということでしかない。

ならば、それも受け入れるとしよう。
空っぽで何が悪いと開き直って街中を闊歩するのも、生き方のひとつの選択なのだ。


*mixi日記に書いた文章を手直ししたものです。

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